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東京/王子郵便局


(確認前のデータ)
王子名主の滝と音無川の流堰を描く
(使用開始:昭和27年4月11日)

北区です。これも古い意匠ですね。作られてから今日でちょうど65年です。
この意匠は画面が横線で2つに区切られていて、上が「王子名主の滝」下が「音無川の流堰」を表していると考えられます。
名主の滝は、現在は「名主の滝公園」として北区が管理しています。
名主の滝公園|東京散歩

その昔、この北区王子を流れる石神井川は渓谷を形成していて、その水音が滝のようだということで「瀧野川」の異名もありました。周辺には実物の滝も複数あり「王子七滝」とか呼ばれていたんですが、中でも有名だったのが風景印に描かれている「名主の滝」。戦前には遊園地のようになっていたそうで、当時の鳥瞰図を見るとプールとか浴場とか色々作られていて面白いです(飛鳥山博物館で常設展示されています)。
ちなみに「王子七滝」のうちいくつかは広重の名所江戸百景にも出てきます。「王子瀧の川」に弁天滝(画面右端)、「王子不動之滝」に不動滝。でも残念ながら現在残っているのは名主の滝だけです。

で、気になったのは「音無川の流堰」です。まず「流堰」の意味が分かりません。りゅうせき?りゅうぜき?そんな単語は聞いたことがないし、辞書にも載っていません。
「音無川」は「瀧野川」と同じく石神井川の異名です。その昔、紀州熊野権現の若一王子をここに勧請して王子神社を作ったことから、同じ紀州の音無川を模して、付近の川を音無川と呼ぶようになったそうです(諸説あります)。風景印に描かれているのはその音無川に架かる「音無橋」。昭和5年に作られたコンクリート製の3径間アーチ橋で、神田の聖橋と似たアールデコ調のビジュアルです。昭和の終わりにリフレッシュ工事を行ったので、現在は少し雰囲気が変わっています(歩道の途中に半円形のテラスが張り出しています)。また、付近は音無親水公園として整備されています。



話を「流堰」に戻します。流堰とは何か。横浜旭の「畠山重忠慰勲碑」みたいに単純な誤字の可能性と、成羽の「神武速素戔鳴尊」みたいに実はどこかにこっそり書かれている可能性と、両方あるような気がします。だいぶ前に王子局に質問したことも一応あるんですが、案の定ふわっとしたお返事だったので、改めて自分で勝手に調べてきました。以下はその成果です。
………………………………………………………………

「堰」という漢字がなぜ使われていたかについてまず検索したところ、音無橋の付近に昔「王子石堰(王子大堰)」と呼ばれる石堰があった、という情報が早々に出てきました。「堰」はそれを指しているのでは。風景印作成当時はどのあたりにあったんだろうか。
王子石堰の歴史は古く、1650年代には既にあったもので、名所江戸百景の「王子音無川堰たい 世俗大滝ト唱」(1857)にもその姿が描かれています。実態は堰だけれども人々には「大滝」と呼ばれていた、ということがタイトルに表現されています。この石堰のすぐ上流から周辺地域へと用水路が分岐していました(↓図中、音無川の左にも細い用水路が1本描かれているそうです)。

国会図書館デジタルコレクションより転載)

この王子石堰は明治25年(1892年)に大規模な改修が行われ、それがさらに改修を重ねつつ昭和の終わり頃まで残っていました。戦前の写真がこちら↓。これは復刻版の絵葉書で、前出の飛鳥山博物館で販売されています。「瀧野川観楓記念」のスタンプがいい味出してる。


この王子石堰の上に、昭和5年に音無橋が架けられました。音無橋の位置は、王子石堰の下流側のほぼ真上。昭和8年刊の滝野川町誌には音無橋について「周囲の眺望実に佳く此橋より下を見下ろせば音無川の飛瀑烟の如く立ち上り両岸の樹木亦頗る奇にして宛然仙境の感あらしむ」などと書かれているのですが、この「音無川の飛瀑烟の如く立ち上り」というくだりが王子石堰の流れを指しているのではないかと思います。
北区の中央図書館に「北区の部屋」という名前の郷土資料室があるんですが、そこに昭和26年の音無橋の写真が保管されていました。ちょうど風景印が作られる前年です。やった!下流側(王子駅側)から撮った写真で、音無橋の向こうに王子石堰が写っています。


ここで風景印の音無橋をよく見ると、


↑確かに、橋の下に半分見切れる形で王子石堰が描かれていました。まさに同じアングルです。
描かれているものを現在の言葉で表現すると「音無橋と王子石堰」になるわけです。まさか風景印と同じ時期の写真が見つかるとは思っていなかったので嬉しかったです。ありがとう!

この石堰はその後もしばらくこの状態で残っていました。転機になったのは昭和33年の狩野川台風です。この台風で石神井川が氾濫し、周辺一帯は水浸しになりました。その経験から石神井川の改修計画が持ち上がり、音無橋の手前からバイパスを掘って飛鳥山の下を通し王子駅の向こうへ川の水を流す、という工事が始まります。昭和41年に着工、44年に完成。
↓これは昭和33年の地図です。黄色が音無橋、薄い青が石神井川、濃い青が王子石堰。バイパスはA→Bをつないで王子駅周辺の流れを直線化するというものでした。音無橋のすぐ西に当時の王子局がありますね。(現在は駅の反対側に移転しています)


これによって音無橋の下を通る水量は激減しました。ただしその後も石堰自体は残されていて、現在の音無親水公園(↑地図中の赤枠内)が作られるまでは痕跡的に残存していたそうです。その頃の石堰の写真も北区の部屋で見せていただきました。


これは音無橋の手前あたりから撮った写真ですね。石堰の中央を削って(?)細い水路を作っているように見えます。この頃は石堰を通った後の流路もアスファルトでできた溝のようになっていました。石堰の後方に写っているコンクリートの護岸のさらに後ろには、石神井川のバイパスが飛鳥山方面(画面左手)へ向かって流れています。
このように護岸のコンクリート化が進み、水質汚濁も加わってかつての渓流が失われたこと、また音無橋自体も架橋から60年近く経って補修が必要と判断されたことなどから、昭和63年に音無橋の改修工事と音無親水公園の整備が行われました。現在の景観はこの時に作られたもので、川底に石を置いたり水車や滝を作ったりと、かつての渓谷を意識した公園作りが行われています。
石堰は完全に撤去されましたが、その場所には謎の水門が。


これはかつて石堰があった頃、音無橋のアーチに音響効果があったことに着目して、水音をこだまさせるための構造を橋の下に復元したんだそうです。
今でも石神井川と音無親水公園はつながっていて、バイパス起点の水門から少量だけ水を取り入れています。公園内の魚道にはその水が流れていて、それを追っていくと王子駅の手前で地下に入り、都電乗り場あたりでまた地上に出てくるのを見ることができます(夏場は公園内にジャブジャブ池を作るのですが、そちらの水は川水ではなく水道水を使っているそうです)。

最後に、当初疑問だった「音無川の流堰」について。
ここまで調べた過程で、この表現を使った本が1冊だけ見つかりました。昭和3年刊の「王子町史」です。該当箇所を抜粋すると、
音無川の流堰
王子神社の東麓、音無川の流堰は、両岸の風色と相待って、現在では特色ある名所として知られている。往昔は此の辺深潭をなして物凄く、漆坊弁天という大蛇が棲んでいたという伝説もあった。堰は長さ十二間余、高さ一丈三尺ばかりの石畳で、初めは今の所よりも四間程の川上にあったが、水嵩の為に逆流するところから、明暦二年今の位置に作り替えたということである。現在の石堰は明治二十五年十二月築造のものである。


↑この本で「音無川の流堰」という言葉が指すのは王子石堰そのもの(または石堰を中心とした景観)です。ただこの表現は音無橋ができる前の景観を表したものだし、現在となっては意味が通らない表現でもあるので、風景印の説明にはきちんと「音無橋と王子石堰」と書いた方が良いだろうと思いました。「王子石堰」という単語から地域の歴史があれこれ引き出されて面白かったですし、風景印を見て「下半分は音無橋ですね」で終わるのはもったいないなと思います。

ご協力ありがとうございました。
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